経歴―Profile―

 

1973(昭和48)年 9月18日生れ 41歳の柏市育ち

学歴

1979(昭和54)年3月 豊四季幼稚園卒園

1985(昭和61)年3月 柏市立旭小学校卒業

1988(平成元)年3月 柏市立柏中学校卒業

1992(平成4)年3月 鎌ヶ谷高校卒業

1996(平成8)年3月 國學院大學法学部法律学科卒業

 

主な職歴・政治歴

1994(平成6)年12月 東京都議会議員秘書 

1996(平成8)年12月 衆議院議員秘書

1998(平成10)年6月 公設第一秘書

1999(平成11)年12月 参議院議員秘書

2003(平成15)年9月 柏市議会議員(1期)

2007(平成19)年5月 千葉県議会議員(1期)

2011(平成23)年4月 県議選で落選

2011(平成23)年7月 JAM東京千葉

2011(平成23)年12月 朝日新聞ASA柏の葉 

2012(平成24)年5月 NTTDocomo Docomoショップ店員(派遣)

2013(平成25)年10月 LG エレクトロニクス (派遣)

 

家族

妻と長男(西原中)、長女(西原小)、次女(西原幼稚園)との5人暮らし

趣味

釣り、スポーツ観戦、読書など ※少年・学生時代は、体操、野球、駅伝、バレーボール等

政治家を目指すきっかけ

学生時代は弁護士を目指して司法試験の勉強をしていました。その最中、日本新党や新生党の政権交代があり、政治に興味を持ち、早稲田大学鵬志会の友人と選挙を手伝ったことが直接的なきっかけです。

その後も、司法試験を目指して民法のゼミに入り、法律の勉強をしていました。しかし法解釈の勉強で、人を救うことができない事例や法の解釈によって180度結果が変わる判例をみて、「法律の不備が結果として人を救えない原因になっている」ということが「直接法律を作る側になりたい」との想いに変わったこともきっかけの一つです。

刑法や憲法など六法を学ぶ傍ら、日本外交史や西洋政治思想史も学びました。開国当時の不平等条約の改正までの経緯やジョン・ロックやJ・Sミル、ジェレミーベンサムといった思想家の考え方、そして「最大多数の最大幸福」という言葉に出会わなければ政治家は目指していなかったかも知れません。

秘書として

秘書として仕えたのは松原仁先生、安倍基雄先生、今泉昭先生の3人です。

松原仁先生は、現在も衆議院議員。民主党政権で大臣を務められましたが、仕えたのは若き日の東京都議会議員当時です。松原先生はちょうど新進党から代議士を目指して活動をしていたころのことです。このときは旧自民、新生党、日本新党、民社党、公明党など各党の皆さんにお世話になりました。主に担当区域をもった地元秘書の活動で、大田区や品川区の支援者の皆さんに大変よくしていただきました。地方議員として支持者との接し方を厳しくご指導され、有権者との意見交換を大切にする姿勢を学ばせていただきました。余談ですが「じんじんんじんの松原仁」という選挙区では有名だった宣伝文句もこのころに支援者の方と考えたものです。

安倍基雄先生は、静岡県浜松市を地盤として活動していた議員。当時は先生が所属していた民社党が他の政党と新進党をつくり、新進党の総務会長を務めていました。主に国会秘書として活動し、国会見学や政治資金パーティーの担当をしていました。官庁の方々や政党職員、東京都内の企業の方々に可愛がっていただきました。特に安倍先生が大蔵省出身であったため、財務省の方々には大変お世話になり、先生のお父様が警視総監であったため警察関係の方ともお付き合いをさせていただきました。新党になった影響で選挙区の静岡県浜松市をゆずり、比例代表での活動であったため、静岡、愛知、岐阜、三重の4県で選挙活動を行っていました。

今泉昭先生は、仕えたころは民主党の比例区議員で、ちょうど千葉県選挙区への鞍替えをされる時期でした。千葉県選挙区での当選後には参議院の副議長を務められました。このときは地元秘書として、JAM千葉(当時)や連合千葉など労働組合の皆さんとの付き合いのほか、千葉県内各市町村の民主党議員や無所属議員の先生方に大変お世話になりました。千葉県全市町村を対象にしたため、各自治体の職員の皆様や各種団体の方々とのお付き合いをさせていただくことも非常に多く、さまざまな県内の課題を教えていただきました。

 

工事中

9・11

市議会議員当時

柏ナンバー導入を勝ち取って

県議会議員当時

かずさアカデミアパーク


東日本大震災


県議選落選と浪人

2011年4月の統一地方選・県議会議員選挙で落選しました。今、、思い返しても選挙をやる心理にはなれなかったことが最大の理由だと思っています。震災直後、ガソリンもなく、大きな拡声器の声で訴える気になりませんでした。危機管理・災害対策をライフワークに活動していた自分が訴えていた内容が、そのまま問題点として浮上してしまったことに大きな責任を感じて、訴えそのものが「すみませんでした。」から始まるのですから、声に力が入るわけはないですね。説得力のない話ばかりしていたような気がします。